えなメモ

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反アガペー

以前、アガペーについているブログ記事を見かけてすごく悲しくなったことがある。

 

アガペーいうのは、全能の愛のことだ。元は古代ギリシャ語、キリスト教の用語で、神の愛。どんな人にも等しく与えられて見返りを求めない愛のことだ。

 

古代ギリシャの愛は他にも三種類の分け方があって、アガペーに次いで範囲の大きな順に、隣人愛、家族愛、性愛と続く。

 

なぜ分けたのかとピンとこないだろうが、これは「どのくらい人は人を愛せるのか、どう愛することがより善く愛し愛されることができるのか」という話につながる。愛するのはいいことである、ということはこの世の大半の人が頷いてくれる明らかなことでしょう。せっかくだから"いい"愛に巡り会いたいと思うことも自然なことのように思える。

 

性愛というのが紛らわしいが、現代に合わせて恋愛と言い換えてもいい。つまり個人が個人に向ける熱烈な愛のことだ。

一人を愛することは美しく素晴らしいことのように思える。が、他と区別される特別だから、どうやら博愛ではないし、独りよがりとも捉えられる。(キリスト教的な神の愛とは矛盾するので聖書にこの言葉はないらしい。)

 

愛されないと人は寂しくなる。アガペーと性愛は矛盾しかねないほどに性質が異なるようだ。だから愛されたいにしても、「どのように」というところは結構大事なのではないか、と思う。

 

私が以前見かけたアガペーについてのブログでは、こう述べられていた。性愛、家族愛、隣人愛は全ての人を愛していないという点において疑問視されるが、アガペーは完全な愛であり誰にでも与えられるから素晴らしい。だが、そんなものが実在する保証はない、と言っていた。

納得も共感もできるのだが、だからこそ、これで終わりなのはなんだか寂しいな、と思う。

 

人間は全ての人を愛せない。全ての人を愛するということは、自分が他人を傷つけうるということを肯定して受け入れることであり、並大抵な覚悟ではかなわない。多くの人を愛することのできる人だって愛されたいという気持ちがあるから、並大抵の覚悟では完全な愛など実現できない。私も課題が積もるだけで世間が憎くなる。なかなか難しいことのようだ。

 

でも私だって寂しい。愛されたい。だけど無償の愛は他人に返しきれる気がしないし、私はそんな愛しかたはできない。何せ、自分に認めたくない嫌なところがある。

自分でも無理だと思ってるすぎたことを望んでもかなわない。だけど愛することができない人がいるとは思わない。一つや二つの趣味や物が好きだと言える人…特に2次元好きには多いんじゃないでしょうか。

 

多分、いくばくかの友達や家族、巡り合わせが良ければ恋人。それくらいの決して多くない人数がいれば私は満足だ。そのくらいの幸せは望んでもいいのではないかと自分を認めたい。 本当に近しい人々なら、愛する自信があると胸を張って言いたい。そのためになら自分を肯定したいし、できる気がする。

 

アガペーではなく性愛から始めてもいいんじゃないだろうかと提案したい。私にはそれくらいが身の丈に合っている。

 

自分が愛せる自信がないからと、無償の愛という理想の奴隷になってずるずると理想を追いかけるだけの日々はきっと虚しく、満たされることはないだろう。なぜなら、かれが本当に欲しいものは形のある身近な愛で、愛を得るために自分の弱みを肯定する勇気から逃げているだけだからだ。

本当に欲しいものからは逃げても追いかけても傷つく。それならいっそ追いかけて傷ついた方が自分を愛せると思うのだが…。

とはいえ、自分の暗部を覗くのは生まれてから何年も掃除してなくて底の知れない押入れを覗くようなものだから、相当な苦痛が伴うことは間違いない。安直に勧めたら人をきっと傷つけるだろう。

だから私はこの記事を書いて、傷ついた寂しい人が少しでも自分を好きになってくれるようにと祈ることしかできない。その際に私の言葉、今日の考えががなんらかの助けとなれば幸いだ。少なくとも私は私を少しは救えたと思う。